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黒川伊保子『妻語を学ぶ』(幻冬社新書)

男性脳と女性脳では、脳力、もとい能力の特性が

そもそも異なる。


広い視点でゴールまでの道のりを合理的、

効率的に見つけようとする男性。


より近い視点できめ細やかに段階的にゴールに向かう、

プロセスを重視した女性。


著者は、プロセス重視=共感を求める女性の考えと、

それに気がつかない男性との考えの違い、

脳の違いによって発動される女性の発する言葉と

それに対する男性の望ましい答え方というストーリーを織り成していく。


著者は言う。


違うから好きになったはずなのに、違いにイライラする。

それなら、愛する人との関係を成熟させ、違いを楽しめる関係を作ろうと。


違いを楽しめるようになるには、一にも二にも共感である。


共感とは、言われなくてもやるという行動と、

相手のことを考えているという言葉のコラボによって、

具体化される。


それ故に女性に対して自発的に何を言うか、女性に聞かれたことに

どう返すかが肝要なので、本書は、察することができないニブイ男性には

必読書、ということになるか。


女性が愛する相手に求めるのは、公正公平な客観的な分析ではなく、

どこまでも自分の思いを受け止めてくれる、アンフェアな共感。


サプライズは、女性には逆効果、ということも多いらしい。


一読すれば、女性のリトマス試験紙が分かった、

ような気がする名著である。

門田隆将『オウム死刑囚 魂の遍歴 井上嘉浩 すべての罪はわが身にあり』(PHP出版社)

本書は、オウム真理教の幹部で昨年死刑が執行された井上元死刑囚の人生を

本人の手記や家族等との手紙によるやりとりを元に作成されたドキュメンタリーである。


以下において、井上元死刑囚は、井上とする。


著者である門田隆将氏は、新潮社時代からオウム真理教を追い続け、

井上が逮捕、起訴され、死刑判決が下された後も、

その半生(井上は25歳で逮捕され48歳となった昨年2018年に死刑が執行)を

見届けてきた人物であり、井上の最後、死刑が執行され家族の元にその遺体は

返され荼毘に付されるまでを描く。


このドキュメンタリーは、あくまで一死刑囚の生涯を通じオウム真理教という

組織に深く関わった、「青年」を少しずつ丁寧に紐解こうしたにすぎない。


ましてや井上の純粋な反省、苦悩する姿勢の紹介によって、

罪の重さを軽減すべきことを訴えるものではないし、

未曾有の大惨事を起こす一連の過程において、

その存在の大きさを矮小化するものでも全くない。


井上への刑執行は早計だったのか、本当に死刑判決が正しかったのかは

本書の読者の判断に委ねられており、事の成否は本書の核を成す論点ではないからだ。


本書における詳述の1つは、人々の日常に潜む非日常的狂気である。


何気ない日常の中で麻原こと松本元死刑囚の「超能力」に出会い、

その力に魅了されていった結果、井上は松本の内なる渇愛

すなわち際限ない欲望を深く認識しながらも、欲望の中に潜む狂気すら、

否定しきることができなかった。


このことは洗脳という一言で説明できるのかもしれないが、

人は弱く、弱いが故に強い狂気、惨虐性を肯定、

少なくとも黙認することを実証してもいる。


また、本書の視点で大切なのは、大罪を犯した子どもと向き合う両親と、

それを支える仏教関係者、特に最後の10年、井上元死刑囚を見続けた女性僧侶との

深愛なるやりとりに対する記述である。


自分の子どもが大罪を犯したとされるなら親族はどう向き合うのか。


本書では幼少期から青年期、特にオウムに入信するまでと、

1995年の逮捕、収監から死刑判決、そして死刑執行までの家族とのやり取りが

克明にルポされている。

 

その中で紹介されているのは、我が子を断罪しながらも親としてこれまでどう向き合い、

そしてこれからどう向き合っていくのか。

 

父親は、その事を我が子に対して噛み締めるように、手紙を通じ語りかけていく。


そのやり取りは、罪の意識に苦しむ我が子に、許されることのない罪である事を

より強く認識させることで更なる苦しみを与え、同時にそれに親として共に寄り添うことを

宣言し実践していく過程でもある。


自身の苦しみが軽減されることはない、ただ麻原からの呪縛から自らの力で解放し、

他の幹部や世間の批判を浴びようとも真実を明らかにすることで、

二度とこのような非道を起こさせない、その一念である。


父は言う。


未来を奪われた人とその家族のことを思えと。


そして息子が許されることのない罪と向き合い、真実を語ると、

自分も母も信じると。


我が子と向き合う親の姿から感じるところが多い。

 

 

三浦瑠麗『孤独の意味も、女であることの味わいも』(新潮社)

救えない子なんていない。

人は大小、傷を抱えている。

 

自分を定義づけるのは自分。

出来事や外部ではない。

 

女であることを味わうことについて、

そして孤独の意味について、

著者は、自身のこれまでの人生の告白をもとに、

静かに語る。

 

三浦瑠麗氏は、若手の国際政治学者として、

各種メディアで活躍している。


彼女の自叙伝的著書は、衝撃を持って受け入れられ、

大きな話題となっている。


自叙伝は、三浦氏のような孤独に自分を見つめる誰かと、

「無数の私」のために書かれている。


 過去の経験に対する慰めや、告白したことに対する勇気を

評価する言葉は不要だろう。


彼女の言うとおり、他者に「自分」を定義づけるさせるべきではない。

自分がどう定義づけるか、それは孤独な作業である。


とはいえ、私たちの誰か認めてもらいたいという

承認欲求は、際限ない。


であるなら、まずは、自分を認めることから

始めるべきであろう。


三浦氏は言う。


幸不幸に関わらず、過去の体験は無駄ではなく、

後になり必ず、その実りがもたらされると。


是非一読してほしいと思う。

 

 

神崎 洋治『シンギュラリティ』(創元社)

「サピエンス全史」と「ホモ・デウス」を世に著したユヴァル・ノア・ハラリ氏が、人間至上主義を信奉する現代人が到達すると語る、シンギュラリティ。

 

元々は、人工知能研究の第一人者であるレイ・カーツワイル氏がtechnological singularityという言葉で人間の未来を概念化したもので、「技術的特異点」と和訳されているこの言葉は、前向きにも後ろ向きにも解釈されています。

 

本書では、シンギュラリティを「人工知能が人間の知能を超えることにより社会的に大きな変化が起こり、後戻りができない世界に変革してしまう時期」、さらには「人間にはそれ(AIの登場)より先の技術的進歩を想像することができない世界」と解釈しています(同12p)。

 

「シンギュラリティ」以外にも、人工知能を理解する上で重要なタームがいくつかあり、本書はそれをわかりやすく説明しています。ここでは主だったものをごく簡単に紹介してみます。


現在のAI、あるいはシンギュラリティを理解する上で簡単なのは、人工知能の目指す到達点を把握することであり、それは「人間と同じ知能を持つコンピュータ」を作ることと言われています。この領域に達したコンピュータは、汎用人工知能(artificial general intelligence, AGI)と表現されています。

 

現在のAIは、AGIの領域には達しておらず、以下で解説する、ディープラーニング人工ニューラルネットワークなどを組み合わせた高性能コンピュータを主に指している、と解釈できます。

 

人工ニューラルネットワーク(artificial neural network, ANN)とは、人間の脳の機能、すなわち神経細胞であるニューロン神経伝達物質であるシナプスなどに似た学習プロセスを持つコンピュータを指します。

 

従来のコンピュータには、人間が行なっている経験を積み重ねていく自律学習ができませんでしたが、外部情報を階層化することで、人間のように賢くなっていくことができるようになっています。ただ、現段階においては、この自律学習は数式データ(アルゴリズム)をコンピュータに覚え込ませることで、処理能力を高めるという手法が取られており、これを機械学習、特に深層学習(ディープラーニング)と呼んでいます。

 

高性能コンピュータには、従来のコンピュータの頭脳である中央演算装置(central processing unit, CPU)だけではなく、高性能計算により画像を高速処理できるグラフィックスプロセッシングユニット(graphics processing unit, GPU)という頭脳も採用しています。GPUは、ディープラーニング人工ニューラルネットワーク構築のための基盤と言えます。

 

人間であれば自らの経験がなくても周りの人の行動を反面教師にしたり、インターネットなどの情報媒体を通じて多角的に学習できますが、現在のコンピュータにはその人間にとって当たり前な学習方法が限定されています。

 

そもそも私たちの「言葉」はコンピュータに理解できません。また、私たちが「感覚的に理解」している画像情報も理解できません。一般論として、人間同士なら「こことここの文章はこうなっていて、ここにはこれが写っていて、こういう位置関係にある」ということを、五感を通じ認知情報として相互共有できます。

 

このような人間同士なら共有できる情報は、データベースのようにコンピュータが認識できる「構造化データ」と区別されて、「非構造化データ」と呼ばれており、音声情報もこの非構造化データに属する情報です。

 

しかし、音声情報について言えば、例えば私たちが自分のスマホインターフェイスの1つであるAppleのSiriやAndroidGoogleアシスタントを使い続けると、自分にとってより使いやすくなるように、現在のAIはたいへん便利なものになっています。

 

AGI時代の到来はまだですが、本書には急速に成長するAIロボットが様々紹介されています。

 

今後は、AIの活用についての法整備もさることながら、私たち人間の環境整備も必要になる時代がもうそこまで来ており、ハラリ氏も言うように人間の存在に関わる生命や意識が問われるようになります。また、ヒューマノイドが感情を持つようになれば、人間のより親密なパートナーになり、デジタルで再現した擬似的なホルモン分泌で怒り、悲しみ、そして苦悩するようになるかもしれません。

 

本書では、ソフトバンクのpepperを事例に挙げ、「人の業務を支援することが期待されて導入されたロボットには、必ずしもロボット自身の感情は必要なものではなく、必要なのは相手の感情を理解する技術だということ」と解説しています(同p177)。

 

シンギュラリティは「良し悪しとは関係のない、新たな常識を産む時代」の到来とも言えます。これまでにも人間はそのような時代を経験しています。しかし、今回は人間の存在そのものが新たな常識により問われることになり、人間の明日に対する期待と不安が交錯している、ということなのだと思います。

 

ICTの今を知ることができる良書でした。

 

ユヴァル・ノア・ハラリ著、柴田裕之訳 『ホモ・デウス』(河出書房新社)

ハラリ氏の著作の書評は、訳者である柴田氏が巻末において最も簡潔に整理してくださっている。私にはそのような力はなく、語れば語るほど語りきれないことを感じてしまう。とりあえず思ったことをその都度書き留めたい。


まず、本書の原題のサブタイトルは、”A Brief History of Tomorrow”である。日本語訳すれば、「明日の略史」ということだろう。

 

明日というのは抽象的な概念である。「明日の私」という場合、それは必ずしも今日の次の日の私という意味ではないし、「明日の日本を背負う」という場合、間違いなく、その意味ではない。

 

ハラリ氏のいう「明日」は、昨日、今日、そして明日が積み重なった「今この瞬間」というべきものであり、それを略史として語るというのだから面白い。未来を単に予測するというのではなく、今を解説していくことで積み上げられるストーリーを歴史研究者の視点から、「歴史」と呼んでいるのだろう。

 

ハラリ氏は、私たちが思想やイデオロギー、イズムとか呼んでいる、人が拠り所としている考えや制度の体系(これをハラリ氏は「虚構」という。これらには、国家国民や法、貨幣、資本主義、自由主義なども含まれる)に横たわる概念的区別を取り払い、すべて人間至上主義という宗教であるとする。

 

この人間至上主義において、崇拝されるのは神でも自然でもなく人間そのものであり、その役割が逆転してしまっている。


神も自然も私たちに答えてくれないから、自分の存在意義、何が正しく何をすべきかは、自分の「内なる声」に耳を傾け、選択する自由を得たのである。それは同時に、生きる意味を模索し選択しなければならない不自由を得たのである。


ここでハラリ氏は、そもそも自分で選択するということはどういうことかと読者に問いかける。私たちの意志は、果たして自由にその選択をしているのかと。


この疑問は、アルゴリズムやゲノム編集といった科学テクノロジーを産み出し進化させた人間性を神聖視するポスト人間至上主義である「テクノ人間至上主義」という新宗教というコンセプトを導入する。人はついに本当に創造主になるのかと。


サピエンスは、想像力で集合体を創造することを可能にした認知革命、定住による社会構造、想像の共同体づくりの基礎となった農業革命、そして、「神を死なす」ことで人の「無知」を終わらせた科学革命を経て、サピエンスを超える科学的特異点、シンギュラリティの領域に達しようとしている。


人にとって選択する自由も不自由も無くなっていく時代が到来する可能性を示唆するハラリ氏。


どう生きるかを考えなくて良い、内なる感情の追求も無くなるような時代の到来を、果たして歓迎すべきか。英雄の「歴史」の中にではなく、それとは別に、普通の私たちの「歴史」の中に答えを模索していくべきでは、とハラリ氏は提言している。


とりあえずその1はここまで。

田原総一朗 『創価学会』(毎日新聞出版社)

予め申し上げると、私は創価学会員ではない。

 

創価学会を支持する論考ではないが、偏見を持つべきではないという一考ではある。


かつては互いに厳しく批判することもあった自民公明両党が、手を握ってから20年。本書は、その歴史をジャーナリストである田原総一朗氏がコンパクトにまとめた力作だ。


コンパクトというのは少々語弊があるかもしれない。公明党がどのように自民党と政策的な折り合いをつけながら、時として自民党の政策に対し積極的な「修正をかける」というアプローチをしてきたのか、その歩みを戦後政治の生き字引からもっと詳しく伺いたかった、というのが本音だからだ。

 

それでも、短い本書において、その歩みの総括的な部分は明快に解説されている。


与党の自民党野党第一党社会党が経済成長の利益を分配をする、いわゆる55年体制が崩壊し、非自民によって中選挙区選挙制度が廃止される中、創価学会という絶対的な支持基盤を持つ公明党が、日本政治においてステークホルダーとしての役割を担うようになり、そして、公明党は、政策的にはかつての自民党ハト派の役割を担うようになり、この20年の間に幅広い政策を持った与党が形成されたことをとてもコンパクトに解説している。


本書の前半では、必ずしも平坦ではなかった創価学会の歩みが日本の社会史的な観点から説明されている。


田原総一朗氏は、着実にそして徐々に支持者を増やしてきたという栄光のストーリーではなく、宗教団体としての試練に直面してもなぜ創価学会は衰退することがなかったのか、逆境を乗り越えられたのかという視点から、その実態を分析することで、戦後史における、より現実的な実像を浮かび上がらせようとする。


教祖を崇拝したり、教祖のパワーにより不治の病が治るというような神がかり的な力による救済もない。代わりに、僧の力を借りずに、自助又は共助的な行為によって、自分と他者を救済する道を模索する在家中心の宗教団体として描き出している。


たとえ生きる希望を失った人が、ある教えを信じるようになったとしても、その教え自体がその人を救済してくれるわけではなく、あくまで自助又は共助による実際的な行動によって、その個人の内的救済が充実するという考えがベースにある。創価学会の教えを広めたり、共に悩みを話し合うという行動はまさにそれである。


このことは、私たちが持つ苦しみが消えないことの本源が、外的な条件故に苦しいということ以上に、私たちが内的な条件、すなわち自分の心情故に苦しく、その心情の苦しみとどう向き合うか、どう克服していくかということにあるのと不可分ではない。


行動というものを1つの宗教であるとか、思想であると見なすことも可能というだけのことであり、平和な世を作る教育への熱い思いが1つの運動、そして組織になっただけに過ぎないということである。


偏見なく本書を読み解くことをお勧めしたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

シェリー・ケーガン著、柴田裕之訳 『DEATH 「死」とは何か』(文響社)

本書はイェール大学の人気講義をまとめたものであり、日本語版は、原著の前半部分が省略されていることもあり、確かな読者からその点を批判する声がある。

 

その批判は大変精緻であるのだが、本書を哲学の入門書、魂のような形のない形而上学的なものを語る書籍として見たときに、哲学愛好者にとっては満足しきれないという意味であり、おそらく死に至る病を抱えているような人たちではないだろう。

 

訳書の批判者は、死を恐れている人や死に苦しみを感じている人ではなく、タブーを積極的に思考することが出来る、ケーガン氏が求めている理想的な読者と言える。


本書はハラリ氏の『サピエンス全史』と似ているところがある。


『サピエンス全史』については、また改めて評させていただきたいが、両書とも、人が消し去りたくても消すことが難しい「苦しみ」の解析を副次的な目的として内在させており、本書においては、「死」をテーマに論述されている。

 

補足させていただくと、ケーガン氏は「創世記的」な考え方を有する「私たち」にとって、「生きることそのものが苦しみ」であると捉えている仏教的な考え方は受け入れ難いだろうと述べている。

 

しかし、仏教的な考え方では、人間として生きていることは「自然」なもの(神の存在は否定しない)とし、死に対する恐れのような苦しみが伴うものとしているだけで、「生きることそのものを苦しみ」と捉えているわけではない。一方で、キリスト教的な考え方においては、生きることそれ自体、神に与えられたものであり素晴らしいと捉えているが、それ自体肯定も否定もせずとも(魂の存在を否定しようがしまいが)、結局は「人は生きている以上苦しむ」ため、本書の議論が読者を魅了するのだと思う。

 

『サピエンス全史』の中でハラリ氏は、農業革命を捉え人が農作物を育てているのではなく農作物が人を育てている、別の言い方をすれば、穀物が人を支配しているアイロニーがあるという。


死についても、人は死に抗おうとし、決して死を欲しないという「想定」のもと、私たちは死に支配、死に対する感情に支配されている。ケーガン氏が指摘するように、その時自分は「いない」のに、である。


このように私たちが毛嫌いしそうな死について、深く考察させてくれる名著である。