気ままなブログ、ときどき更新。テーマもいろいろ。

たまにはスマホを捨てて、町に出よう。

ユヴァル・ノア・ハラリ著、柴田裕之訳 『ホモ・デウス』(河出書房新社)

ハラリ氏の著作の書評は、訳者である柴田氏が巻末において最も簡潔に整理してくださっている。私にはそのような力はなく、語れば語るほど語りきれないことを感じてしまう。とりあえず思ったことをその都度書き留めたい。


まず、本書の原題のサブタイトルは、”A Brief History of Tomorrow”である。日本語訳すれば、「明日の略史」ということだろう。

 

明日というのは抽象的な概念である。「明日の私」という場合、それは必ずしも今日の次の日の私という意味ではないし、「明日の日本を背負う」という場合、間違いなく、その意味ではない。

 

ハラリ氏のいう「明日」は、昨日、今日、そして明日が積み重なった「今この瞬間」というべきものであり、それを略史として語るというのだから面白い。未来を単に予測するというのではなく、今を解説していくことで積み上げられるストーリーを歴史研究者の視点から、「歴史」と呼んでいるのだろう。

 

ハラリ氏は、私たちが思想やイデオロギー、イズムとか呼んでいる、人が拠り所としている考えや制度の体系(これをハラリ氏は「虚構」という。これらには、国家国民や法、貨幣、資本主義、自由主義なども含まれる)に横たわる概念的区別を取り払い、すべて人間至上主義という宗教であるとする。

 

この人間至上主義において、崇拝されるのは神でも自然でもなく人間そのものであり、その役割が逆転してしまっている。


神も自然も私たちに答えてくれないから、自分の存在意義、何が正しく何をすべきかは、自分の「内なる声」に耳を傾け、選択する自由を得たのである。それは同時に、生きる意味を模索し選択しなければならない不自由を得たのである。


ここでハラリ氏は、そもそも自分で選択するということはどういうことかと読者に問いかける。私たちの意志は、果たして自由にその選択をしているのかと。


この疑問は、アルゴリズムやゲノム編集といった科学テクノロジーを産み出し進化させた人間性を神聖視するポスト人間至上主義である「テクノ人間至上主義」という新宗教というコンセプトを導入する。人はついに本当に創造主になるのかと。


サピエンスは、想像力で集合体を創造することを可能にした認知革命、定住による社会構造、想像の共同体づくりの基礎となった農業革命、そして、「神を死なす」ことで人の「無知」を終わらせた科学革命を経て、サピエンスを超える科学的特異点、シンギュラリティの領域に達しようとしている。


人にとって選択する自由も不自由も無くなっていく時代が到来する可能性を示唆するハラリ氏。


どう生きるかを考えなくて良い、内なる感情の追求も無くなるような時代の到来を、果たして歓迎すべきか。英雄の「歴史」の中にではなく、それとは別に、普通の私たちの「歴史」の中に答えを模索していくべきでは、とハラリ氏は提言している。


とりあえずその1はここまで。