気ままなブログ、ときどき更新。テーマもいろいろ。

たまにはスマホを捨てて、町に出よう。

シェリー・ケーガン著、柴田裕之訳 『DEATH 「死」とは何か』(文響社)

本書はイェール大学の人気講義をまとめたものであり、日本語版は、原著の前半部分が省略されていることもあり、確かな読者からその点を批判する声がある。

 

その批判は大変精緻であるのだが、本書を哲学の入門書、魂のような形のない形而上学的なものを語る書籍として見たときに、哲学愛好者にとっては満足しきれないという意味であり、おそらく死に至る病を抱えているような人たちではないだろう。

 

訳書の批判者は、死を恐れている人や死に苦しみを感じている人ではなく、タブーを積極的に思考することが出来る、ケーガン氏が求めている理想的な読者と言える。


本書はハラリ氏の『サピエンス全史』と似ているところがある。


『サピエンス全史』については、また改めて評させていただきたいが、両書とも、人が消し去りたくても消すことが難しい「苦しみ」の解析を副次的な目的として内在させており、本書においては、「死」をテーマに論述されている。

 

補足させていただくと、ケーガン氏は「創世記的」な考え方を有する「私たち」にとって、「生きることそのものが苦しみ」であると捉えている仏教的な考え方は受け入れ難いだろうと述べている。

 

しかし、仏教的な考え方では、人間として生きていることは「自然」なもの(神の存在は否定しない)とし、死に対する恐れのような苦しみが伴うものとしているだけで、「生きることそのものを苦しみ」と捉えているわけではない。一方で、キリスト教的な考え方においては、生きることそれ自体、神に与えられたものであり素晴らしいと捉えているが、それ自体肯定も否定もせずとも(魂の存在を否定しようがしまいが)、結局は「人は生きている以上苦しむ」ため、本書の議論が読者を魅了するのだと思う。

 

『サピエンス全史』の中でハラリ氏は、農業革命を捉え人が農作物を育てているのではなく農作物が人を育てている、別の言い方をすれば、穀物が人を支配しているアイロニーがあるという。


死についても、人は死に抗おうとし、決して死を欲しないという「想定」のもと、私たちは死に支配、死に対する感情に支配されている。ケーガン氏が指摘するように、その時自分は「いない」のに、である。


このように私たちが毛嫌いしそうな死について、深く考察させてくれる名著である。